ヒナ川

20年位前になろうか。僕はとある田舎町に住んでいた。小学生の僕には小さな町での暮らしの中にも冒険と不思議が沢山あった。
友達と、虫取りや探検ごっこ、野球などをして遊んだ。
ヒナ川とモズ川の間にあるグラウンドに皆で集合し、毎日遊んだ。
当時人さらいの噂が流れ、独りで行くことは先生が禁止していた。
そんな中あの事件が起こった。帰り道に、人だかりができていた。
ヒナ川に架かる弁天橋のたもと、公園を兼ねた神社に、根の張った桜の木があり、ヒナ川に枝を広げている。
人混を分け、僕はやっとこさ、一番前に出た。警官達がたくさん見える。
野次馬のおばあさんと孫に聞いた話では、桜の木から首を吊って自殺していた女性が発見され、
住人が警察に通報したが、到着前に枝が折れ、女性は川に流されたそうだ。

人垣の向うに、ヒナ川をさらう警官達の姿が見えた。怖くなった僕は家路を急ぎ、母親に泣きつき事件のことを伝えた。
この事件は先生達の間でも問題視され、遺体がでる迄は生徒がヒナ川の方へ遊びに行かないよう、宿題の量が増やされた。
もちろん僕も自分から進んでグラウンドへ行きたいとは、間違っても思わなかった。遺体はその後も見つからなかった・・・。

季節が一つ移ろった。この学期、僕の家に留学生がホームステイに来た。
目の青い、大人びた中学生。姉の交換留学相手。
慣れない長旅のせいでつかれたのか、彼女は手短に紹介を済ませ、トランクを開け荷物を仕分け始めた。
すぐに土産物を取り出し、僕らにくれた。僕には実に心の躍るプレゼント。それはニュージーランドのブーメランだった。
「原住民の怨霊還し」と名のついた、木製の大きなものだ。アボリジニーの間では、狩に出る際の魔除のお守りとして、大切にされていた。
デザインは酷いものだったが、その重厚さは僕を魅了するに十分だった。僕は、勢いよく家を飛び出すと、あのグラウンドへと走った。
不安は残っていたように思う。しかし月日も経ち、学校からも許可がおりていた。ヒナ川まで、僕は、休むことなく走った。
弁天橋を駆け渡り、二つ目の土手をすべるように降り、グラウンドへ駆け込む。
とても強い風の中、ぼくは、五回、六回と、ブーメラン投げを繰り返した。
風上に投げれば、風に呑み込まれたブーメランが勢いを増して僕の方へ戻ってきた。
不意に、人さらいの噂が脳裏をよぎる。刹那、土手の上に人の気配を感じ、息をのんで、
僕がそっと振り返ると、逆光に紛れ何者かの姿が浮かんでいた。

大きく傾いた夕日に照らし出された黒い影は、女の様だ。田舎の土手は、都会と違って電燈も薄暗く、昼間でも人通りが少ない。
僕は驚き、目をしばたいて再び影の正体を見極めようとしたが、無理だった。
丁度そのとき、一台の自転車が、土手の上を走ってきた。
自転車が、例の人影と同じ位置に差しかかった時、影はスッと立消える様に見えなくなった。
時間を止められてしまったかのように、僕は、その場で凍りついた。

できることなら思い出したくなかった。ヒナ川弁天橋で目にした、あの異様な光景。揚がらない、女の遺体。
事件の前後に流れた正体不明の異常者の噂。ハッと我に返った僕は、急いで家へ帰ることにした。
あの何者かの影に怯えていた。土手を駆け上がり、無我夢中でさっき来た道をもどっていく。
弁天橋がみえた。同時にその中央にじっとうずくまっている者が見えた。群青色の服の、紅い夕日を背にした女。
はっきりと見ることはできなかったが、首をうなだれた女の、びっしょり濡れた長い毛の先から、水が幾筋も滴り落ちる。
女がゆらゆらと立ち上がる。僕は土手を走り、川下へ逃げた。川下に行けば、「ムジナの橋渡し」がある。

大きな一枚板の、丈の低い平らな橋。それが「ムジナの橋渡し」。大半の子供達はこの橋を避ける。
欄干も街燈すらもない、この古びた橋は、いつの時代に作られたのかも分からない程に、朽ちかけていた。

ふつうは絶対に渡らないこの危険な橋が、今の僕にとっては、希望をつなぐ唯一の道だった。
途中、僕は転倒し、ブーメランを落すが、もう、それどころではなかった。陽は、今正に沈もうとしている。
灯りのないこの橋だけは、陽が沈む前に渡りきらなくては。あたりには、人のいる気配はない。何かあっても助けは期待できない。
僕はほんの少し戸惑った。だが、不安を振り払い、橋を渡りだした。慎重に、少しずつ進んだ。
その時だった。弁天橋の女と目があってしまったのは。

口元を左右に吊り上げ、女は、血の滴る赤い瞳で僕を睨む。女の右手がすっと上がり、僕に手招きを始めた。足が動いてくれない。
薄気味悪い程青白く、幾本もの濡れた髪に覆われた女の顔と、頬をつたう赤い血の筋。
その、不気味なコントラストが、僕の足を硬直させた。ただ時間だけが過ぎていった。もうすぐ、陽が沈んでしまう。
気持ちだけが焦るが、女に手招きされ、僕の勇気は薄闇の中に溶けてしまった。

とおくで寺の鐘の音が響いた。暗闇を月光だけが照らしている。
立っていることが困難なほど、足がガクガクと震えた。
あの女の手招きが、ゆっくりと繰り返される度に、僕の体は川に落ちそうになる。
涙があふれてぼやけた僕の目にも、闇に浮かぶ女の赤い目だけははっきりと見えた。
見たくもないのに。急に女が薄笑を浮かべた。右手を差し出し、僕のいる方向を掻き毟ったように思えた。
その直後に、僕の前髪が、ぐいっと手で引っ張られた。
僕は、上半身を欄干のない橋から引きずり出され、すっかり川底が見える体勢になった。
少しでも足の力を緩めたらボトンと川に沈んでしまうだろう。
ヒナ川の流れは速く、少し下流でモズ川にながれこむ。落ちたら、助からない。
僕は死の恐怖に泣き叫び、必死で落ちそうな体を支えた。だが、恐怖は、今度は川底から僕を迎えに来た。

こわばる体。青白く、藻に覆われた丸い物体。魚についばまれボロボロの、赤黒い両目玉。青紫の唇。
女の水死体が、水中に漂っていた。死体は僕を見つけると、歪んだ笑みを浮かべた。
氷の様な青白い両手が水のなかから現れ、水滴を垂らし、僕の首筋にじわりじわりと絡みつく。
必死の抵抗虚しく、僕の頭は徐々に水中に引きずり込まれていった・・・。

大きな物が突然、僕にぶつかり、それが川に落ちた。
波紋が、女の姿を部分的にぼやけさせ、件の両手も透明になった。呪縛から解き放たれた。
ぶつかったのは、「原住民の怨霊還し」だ。僕は一息に橋を渡った。
死んだ女に道連れにされかけた恐怖から、声をあげ泣きながら走った。
僕は土手を駆上がった後、立ち止まった。弁天橋には、もう何もいない。
じっとりと汗ばんだ手を握って、恐る恐る「ムジナの橋渡し」の方を見つめた。
血と水の滴る手で、女が口惜しそうに手招きを繰り返していた。
わすれられない言葉が暗闇から響いた。「・・デ。オイデ・オ・イデ・・」

だれかに呼ばれている気がする。皆、一度はそんな経験があるだろう。
お気をつけください。貴方の背後から忍び寄る彷徨える女の手に・・。

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