隣人

数年前の今頃にあった話をこの場を借りて話させて頂く。
その頃の俺はまだニートだった。親の金でアパートに住み、ネットに浸り、好きなことをやっていた。異変を感じたのはそのアパートに住みこんで2カ月程経ったある日のことだった。
喉が渇いたのでコンビニにでも行こうと玄関を出ると隣の部屋の入り口付近に茶色の汚れがあった。それだけなら気に止めるまでもないが、扉が数センチ開いており、そこから強烈な臭いが漂ってきていた。生臭く、腐敗臭と鉄の錆のにおいが混じったような、そんな臭いだった。
隣の部屋に誰が住んでいるかなんて知らないし、注意しようとも思わなかった。そいつが生ゴミでも出し忘れたんだろう、と勝手に解釈して足早にその場を立ち去った。

そして約10分後、コンビニでジュースなどを買ってアパートに帰ってきた。例の部屋からは相も変わらず臭いが漏れていた。ただ、先程とは違うのは、扉が全開になっていてそこから中の部屋の様子が丸見えだった。
どんな生活をしているんだろう。何気なく、本当に少しの好奇心で玄関を覗いた。
言葉が出なかった。額を冷や汗が伝う。膝がガクガクと笑った。
玄関には赤茶色の水たまりができていた。その上に幾つもの靴が無造作に置かれ奇妙なオブジェを作り出していた。そして、奥へと続く廊下には何かを引きずったような赤黒い線が何本もあった。
血。
何の根拠もないのに、その言葉が頭に浮かんできた。冷静に考えれば泥だとか汚れだと簡単に決めつけられただろうに、その時の俺は血の一文字で頭がいっぱいだった。
それを確かめるために玄関の水たまりを小指ですくって鼻に近づけてみた。
鉄錆の匂い……。
疑惑が確証へと変わり、しばしの間、己の手の平を眺めていた。
今考えるとその後の自分が、どうしてそのような行動に出たか未だに分からない。そのまま恐怖に従い自宅に戻れば良かったのに……。
とにかく俺は、引きずり痕がどこに続いているか気になった。廊下は3メートルほどで突き当たりになっており、左右に分かれている。血痕はそのまま右に続いていた。
好奇心に突き動かされた俺はご丁寧にも玄関でサンダルを脱ぎ、恐るおそる廊下を歩いた。
右に曲がると薄汚れた扉があった。真ん中がガラスでできている俺の部屋にあるものと同じ造りだったが、硝子も汚れて不透明で全く違った印象を受けた。
向こうにはこの部屋の主がいるかもしれない。その可能性が十分あるのにその時の自分はためらわずにドアノブへ手を伸ばした。ゆっくりとひねる。扉を引いた。
今までのものとは明らかに違う腐臭が鼻腔を襲った。目がしみる。反射的に口を手で覆った。
部屋のカーテンは閉め切られ昼間なのに薄暗い。床には様々な生活ゴミが散乱している。どんよりと濁った空気の中、何十匹ものハエが飛び交っている。そして何よりも部屋の中央でうずくまっている人影が不気味だった。
背をこちらに向けているため性別は分からない。髪は肩の所までありくしゃくしゃになってフケが大量に浮いている。
一心不乱に作業らしきことをしているため、まだ俺の存在に気づいていない。そいつの両脇にあるものに気付いた時、自分の喉奥から胃の内容物がせりあがってきているのが分かった。
うずくまっているそいつの高さほどもある肉の山。血を滴らせて赤い筋を露出している肉片もあれば、ウジが沸いて崩れかけたミンチ状のものもあった。大半が5センチ以上もある黒光りのゴキブリにたかられていたが、まぎれもない肉塊だった。
突然そいつが野太い声で
「ああぁぁぁぁああああああっ!」
と叫び、宙に手を出し、ばたばたと振った。それもつかの間、今度は両脇の肉山に手を突っ込むとガバッと掻き出して顔に押し付けて食べていた。そのくちゃくちゃとした唾液と肉汁と何かの液の音を合図に口から吐瀉物が溢れだした。
音を立てて自分の吐瀉物が床に落ちる。と同時に俺は出口に駆け出していた。
殺される殺される殺される殺される……。あの人物の絶叫から何か鬼気としたものを感じ、とっさにそう思い込んだ。俺に気付いたのか背後から
「うわあぁぁぁああああああっ!」
と叫び声が聞こえた。
必死で走った。ひたすら地面を蹴り続けた。
気がつくとアパートからはかなりの距離ができていた。後ろを振り返ってもあいつが来ている様子はない。ふと、足元を見てみると裸足だった。
しまった……。サンダルをあの部屋に忘れた……。サンダルから身元がバレる心配はないと思うが、あいつの部屋に自分が居た痕跡を残すのは気分が悪かった。
さすがに今すぐ自宅に戻るのは気が引けた。何よりも視覚と嗅覚と聴覚から一度にあのような情報が入ったことで精神的にきつかった。
しょうがない……近くの漫画喫茶で時間をつぶすか。

2時間後、俺は漫画喫茶を出て、アパートに戻った。階段を上るとそこにはあいつがいた。
男だった。40代前後ぐらいだろう。髪同様に髭もぼさぼさで、頬骨辺りには吹き出物が多数あった。眼は虚ろでどこに焦点を定めているか分からない。そいつがこちらに向けてにやっと笑った。どう見てもつくり笑いだった。黄ばんだ歯だった。男は
「あんた、これ忘れてったろ」
そう言って俺のサンダルとコンビニの袋を渡してくれた。
ガチガチに震えていた俺は取り合えず礼を言うとUターンして階段を降りようとした。
「何を見た?」
口調は優しいが明らかに怒りをこらえている、そんな感じがした。「なぜ部屋に無断で入ったか」を聞かずに「何を見たか」ということを聞くところからも男の異常さが窺えた。思わず
「何も見てない」
と答えた。声が震えた。男は「そうか」とだけ言い自分の部屋に入って行った。
予想外の出来事の連続で身体が動かなかった。が、なんとか自宅に入ると急いで鍵とチェーンを掛けた。一気に力が抜けた。自分は助かったんだと何度も確認した。すっと手の間からコンビニの袋が抜け落ちた。床に落ちる。落ちた拍子に袋から何か飛び出した。
肉だった。赤く濁った血を撒き散らしながら飛び出る。表面にはウジ達がうねうねと蠢いていた。叫んだ。腰が抜けた。あいつだ。あの男が……。
突然インターホンが鳴り響いた。誰でもよかった。助けてほしかった。相手も確認せず鍵とチェーンを外す。扉を開けた。
あの男が眼を見開いて笑っていた。そして言った。
「やっぱり見たんだろ?」
俺はそこで失神した。

眼を覚ますと病院だった。どうやらあの時から3日立っているようだ。傍にいた看護婦が言うには、あの後友人が遊びに来て玄関で倒れていた俺を見つけてくれたらしい。何度か眼を覚ましたらしいがパニック状態で訳の分からないことを叫んでは気絶の繰り返しだったそうだ。すぐに医者に症状を聞いてみたがショックか何かで気絶しただけで外傷は全くないとのことだ。原因を聞かれたが分からないと答え、それ以上入院する必要もないので自宅に帰った。
帰宅途中、携帯でその友人にその時の様子を聞いてみたが男や肉なんて言葉は一言も出なかった。アパートにつくと大家に隣の男について聞いてみた。2日前に引っ越したらしい。
自宅はいつも通りだった。無くなっているものや壊れているものはなかったが、あの時の肉も無くなっていた。男に渡されたサンダルは捨てるつもりだった。もう思い出したくなかった。
サンダルをゴミ箱に投げ入れたその時、気付いた。男の玄関には様々な靴があった。スニーカーがほとんどを占めていたが中にはハイヒールや幼児向けのキャラクターがデザインされたものもあった。あれらは誰のだったのだろう。そして持ち主はどうなったのだろう。あの男ならきっと……。
考えたくもなかった。

コメント

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  2. 匿名 より:

    『千と千尋の』でのオチのように、見慣れない遺留品の欠片が落ちてたで終わらせるべき。

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