覗いていた顔

その夜、俺は拾ったばかりの仔猫を病院へ連れて行っていた。
アメショの胴体部分の模様をかき混ぜてしまったような、白地に黒い毛の混じった銀色っぽい毛並みの猫だ。
ストレスで体調を崩したらしく、点滴を打っただけで帰ることができた。

疲れているのか、うとうとしているそいつを寝室に置き飛び出さないように窓とドアを閉めて手早く晩飯を作って食った。
30分ほどで様子を見に戻ると、ドアをあけた途端、寝ていたはずのそいつがパソコンデスクの影から慌てて飛び出して来ながらミィミィと鳴いている。

普段は何があっても鳴いたり暴れたりしない大人しい奴なのにどうしたんだろう。
部屋の中は月明かりでぼんやりと照らされ、どこかから耳慣れない音が聞こえてくる。
ジィーッともシャァーッともつかないその音は、例えるならいつかテレビで聞いた蛇の威嚇音のようだ。
この音に怯えたんだろうか?裏で工事をやっているらしいから、そのせいかもしれない。

視界の隅で何かが動いた気がしてそちらに目をやった。
薄暗くてわかりづらいが、米粒ほどの大きさの黒いものがもぞもぞと這っている。
ゴキブリの幼生だろうと思い、近くにあったティッシュを掴んでそれを押しつぶした。
その時、妙なことに気づく。

マンションの真裏で、こんな夜遅くまで工事なんてやっているものだろうか。
大体、今夜は月なんて出ていなかったんじゃないか?
反射的に立ち上がって明かりをつける。
いつの間にか音は止んでいた。

外に視線を向けると、窓から覗いていた顔がさっと隠れた。
慌てて駆け寄って勢いよく窓を開ける。
ベランダなんて気の効いたものはなく、5階の高さの先にある地面は星すら雲に隠された闇の中では見えなかった。
握り締めていたティッシュを開くが、そこには何の痕跡もない。
いつの間にか仔猫は穏やかに寝息を立てていた。

数日が経ち、仔猫の体調もすっかり良くなっていた。
俺はクーラーを効かせるため部屋を閉め切ってパソコンデスクに向かっていた。
電源を入れて、立ち上がるのを待つ間に背後で眠っているはずの仔猫を振り返った。

……なにやら熱心に俺の足元を覗いている。
その先は、デスクの下の空間しかない。
猫が見つめるものと言えば大概虫だ。
蚊かゴキブリかと確かめようとしてひょいと覗き込んだ。
人の顔がさっと隠れた。俺はその苦しい姿勢のままで固まった。

デスクの下には、部屋の壁とデスクの細い脚しかない。
いったいどこに、誰が隠れたというんだ?
う、と呻いて口を押さえた。
急いでキッチンへ駆け込み水を汲む。
以前、極度の怖がりだと自認している後輩をお化け屋敷へ無理矢理連れ込んだことがあった。

中間地点を越えたあたりで恐怖のピークを超え、そいつは通路の真ん中で嘔吐してしまった。
つまり、俺もその得体の知れない何かに慄いて吐き気を催してしまったんだ。
心の中でそいつに詫びを入れるが、あの時はお化け屋敷、これは現実だ。
実際にそんなものがいるわけがないじゃないか。
幸い吐き出さずに済んだが、気を落ち着かせるために軽く水を飲んで部屋に戻った。

何か危害を加えられたわけでもない。
見えたとしても、見えなかったと思えばいい。
それからも幾度か変なものは見えたが、俺は徹底的に無視を決め込むことにした。

ある日部屋へ帰ってきて玄関を開けると、勢い良く銀色の仔猫が飛び出した。
今まで外へ興味を持ったことすらなかったから油断してしまった。
後を追おうとすぐに振り返るが、長い廊下のどこにも猫の姿など見当たらない。
俺は逆に部屋に飛び込み、仔猫の名を呼んだ。

何度も呼ばないうちにいつもの部屋からひょっこりと顔を出す。
ほっとしたが、ではさっきの猫はいったいなんだったんだ。
いい加減限界に来ていた俺は、どうせ事実など教えてもらえないだろうと思いながらも管理人室に押しかけた。

俺が入居する前に自殺や殺人事件はなかったかという問いには、当然強く否定が返ってくる。
何度も念を押す俺の勢いに負けたのか、おっさんはひとつだけ教えてくれた。
俺が入居する少し前、部屋の掃除や壁紙の張替えをするために部屋に入ると、中で一匹の猫が死んでいた。

どこから侵入したのかはわからないが、窓も玄関も厳重に締められ飢え死にしてしまったようだ。
気になった俺はどんな猫だったか覚えているか、と聞いた。
白と黒が混じりあって生えたような、銀色に見える毛をした仔猫だったそうだ。

俺はその日以来、自分が部屋にいる間は廊下に面した小窓を少しだけ開けておくようになった。
変な音や月明かり、顔などとの関連性はさっぱりわからないが、今のところ変なものは見ずにすんでいる。

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